三十三観音巡礼  非公式サイト(煩悩充実日記)

充笹の営業、経営、教育、健康、恋愛、愛情、旅、グルメ、神社、朱印帳、温泉、いいこと一杯!観音様の慈悲へ感謝の実記録

【0040 観】東の都、東京繁栄の浅草寺

戦国の近江から京へのぼる出世街道を、そして千利休の堺へと実家巡り。

親の顔を見て、

関東へ帰路につく。

徳川江戸を通り過ぎて、日光の手前の栃木宇都宮まで帰宅は結構遠い〜。

 

西国から坂東へ。

 

翌年の2020年。 年初から徐々にコロナ騒動が湧き上がってくる。

武漢からとんでもないウイルスがやってくるとの噂が現実に。

中国発だけでも怖いのに、情報がいい加減なので尚更怖い。

そんな中、日本にも上陸?

コロナ大騒動に。

 

第一回 緊急事態宣言

2020年

4月7日〜5月25日

 

少し治まり、

7月22日〜GoToトラベルスタート(東京除く)

東京オリンピック

7月23日〜8月8日

 

10月1日〜GoToも東京も追加

 

10月6日〜11月29日に

東京国立博物館で特別展「桃山ー天下人100年」が開催されるだと。

 

これは見たい!

お江戸に行きたい。

 

振り返ると

12月には、高齢者自粛GoToキャンセル無料措置へが始まり、またしても外出自粛気味。

翌年、第二回 緊急事態宣言

1月8日〜3月21日まで、騒動は長期化。

 

コロナの騒動になって、ほんの僅かな隙間だな。

10月6日〜11月29日

東京国立博物館で特別展「桃山ー天下人100年」

今振り返るとよく行けたよな。

なにかと人が多い東京だし。

 

特別展の案内文からして心が震えた。

 

>室町時代末期から江戸時代初期にかけて、京都の都の移り変わる姿を描いた「洛中洛外図屛風」をプロローグとして、

 

狩野永徳がプロローグか〜。金色の雲から覗く都の姿。

豪華だな。

>狩野永徳長谷川等伯に代表される安土桃山時代の画家たちによる豪壮華麗な障屛画、

これだよこれ。

これが見たいんだよ。

>志野や織部に代表される意匠性優れた桃山茶陶、戦場でひときわ目立つ戦国武将の甲冑、高台寺蒔絵や世界へと視野を広げた南蛮美術など、

千利休から続く織部、いいね〜。

堺、南蛮だよ。

>安土桃山時代を特徴づける美術作品の数々によって、天下人が夢を追い求めた黄金の時代の造形が並びます。

見たい。

どうしても。

見たい。

自分自身が段々と歳を重ねてくると、好きなことだけしたくなってくる。

仕事や色々と追われて、自分を置き去りになりがちなってしまって、何がしたいのかもよくわからなくなってしまって、よくよく自分の行動を振り返ってみると、どうも私は絵が好きなようだ。

 

行くぞ勝手に、GoTo東博等伯

 

なんでも東京なんだよ。

こんな特別展は、全国にも巡業のように回れども、規模とっても数をとってもやっぱ東京だよな。

小さな頃に憧れた上野動物園のパンダに、図鑑好きだったので、国立科学博物館は行ってみたかったんだ。ここに上野の公園にあるんだ。

他にも、国立西洋美術館に、都立美術館などなどイベントだらけ。

 

長谷川等伯の出身地の能登の七尾に、等伯の作品はなかなから見られない。

わずかに企画展があるかなって感じ。

 

等伯のこれぞ国宝「松林図屏風」は、ここ、東京国立博物館が時々企画してくれる時にしか見られない。

 

今回の特別展。桃山100年。

狩野永徳vs長谷川等伯

あの金蘭豪華な屏風対決が並び、桃山美術が東京に集結、超絶かっこいい。

信長、秀吉の目指していた大胆かつ繊細な人生感を表す。

寺社に、御所に、聚楽第に、伏見城に、

なんでもあったのは、京の都。

 

でも今は、京は京でも東京なんだ。

 

信長、秀吉と来て、最後の最後は徳川家康に徳川家に落ち着く。

大阪の堀を埋められて、武力でお江戸東京が政府の中心に。

 

明治政府も、京都ではなく東京へ。

政治の中心に、首都としての風格が。

 

戦後もさらに、政治、芸術、文化、情報を圧倒。

東京一強。

 

東京、ここ上野恩寵公園都市公園の中で、最も早く整備されて昭和チックだったのが、また平成、令和となっも街が、どんどん再生されていく。

カフェひとつとっても、パークサイドカフェなど新しく変えられて、明るい感じ。

JR上野駅も再生中。

なんか、上野までおしゃれになってきている。

東北新幹線を乗って、宇都宮駅から上野の地下から上がって改札でてくると、

町の再生が眩しくて、空まで明るく見えるような気がする。

どんどん良くなるもんな。

まだまだ、東京一極が続くんだろうか。

この発展の基礎を作った、坂東に持ってきた家康の先見性はほんと恐れ入ります。

坂東と呼ばれた地、広い平野、水源、都市機能、今からだとわかるが、よく江戸に持ってきたな。

この東京の発展を、なんと飛鳥時代628年から見続けている観音様がいる。

日本初の地下鉄、上野から浅草まで約5分。

浅草寺、聖観世音菩薩が見守りつづけている。

 

坂東三十三観音霊場

第13番札所。金龍山 浅草寺

東京都唯一の霊場へ。

お江戸の時代からも大人気。

次回、地下鉄に乗って浅草寺へ。

 

【0039 観】都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)とかわけ投げ

唐門(国宝)から観音堂重要文化財)へ、船廊下(重要文化財)を渡って、つくぶすま、つくぶじま、ちくぶじま、竹生島神社、バンザイバンザイ。竹生島神社(都久夫須麻神社)へと歩む。

都久夫須麻神社の本殿もご立派。

本殿は、ここでも秀吉の伏見城の遺構。

移築している。

桃山時代のアートな造り。

桃山美術の本物。

金の装飾が使われ、特に、堂内の襖絵の草花図、天井には、菊•松•梅•桜•楓等、狩野永徳の息子、狩野光信が描いたと言われる。

そりゃ本殿も国宝だわな。

戦国のアート対決。

長谷川等伯vs狩野永徳と、

ブログで追ってきた双方の息子が、

長谷川久蔵vs狩野光信。

狩野光信の作まで繋がる。

信長の安土城、秀吉の伏見城、絢爛豪華な絵画絵師受注戦争。

もっと、残っていたらいいのだが、なかなか作品は残っていない。

残ってると貴重品。

国宝級。

 

ここ竹生島は、戦国の桃山美術が色濃く残っている。

神社仏教は、日本美術も伝える。

弁財天さまは、芸術の神でもあり相応しい。

御祭神は、

市杵島 比売 命

イチキシマ ヒメ ミコト

福岡の宗像大社の三女神のひとり。

福岡在住の頃は、何かあれば、七五三や初詣はいつも宗像大社でと、大好きな場所。

玄界灘の、沖ノ島から守る。

海の女神。

水にまつわる。

商売繁盛、芸能、金運、勝負、豊漁、交通安全、五穀豊穣。

弁財天と重ねられる。

 

境内もここまでくると、近江の海が広がる。

景色が水辺になる。

淡海。あはうみ、あふみ、おうみ。

琵琶湖と呼ばれるようになったのは、室町から江戸時代からのようで比較的新しい呼び名。

竹生島にまつられている弁財天の楽器の琵琶に湖の形が似ているから琵琶湖へと。

水辺といえば、もう一つ。

大事な神。

琵琶湖の水神。

龍神さま。

同じく祀られていて、竹生島龍神拝所がまっている。琵琶湖一面が見え、足元の先には湖面に突き出た鳥居が建つ。

 

竹生島アトラクション。

かわらけ投げ。

小さな土器のお皿。

二枚で一人分となっており300円。

1枚目に名前を書いて、2枚目には願い事を書く。

家族でそれぞれ書き、鳥居に向かう。

かわらかけを投げて、鳥居をくぐれば願い事が成就すると言われている。

長女が暑さが和らぎますようにと、願い事を投げるも届かず。

その後も、みんな願い事が成就せず。

ここは私が挽回するか。

琵琶湖に向かって投げるも足元に落ちる。

あぁ〜。

もう一枚、いけ〜。

成就せず。

 

水の神には届かず。

神頼みはひとまず置いて頑張って帰るか。

 

出航時間が中途半端だな。

ちょっと待たなきゃいけない。

カキ氷食べたいの圧力。

お店に入る。

長女が暑さが和らぎますようにと、かわらかけに書いた願い事が、

届いてないにも関わらずカキ氷のご褒美。

暑さ和らぎました。

 

きっと観音様がカキ氷を差し伸べてくれたのでしょう。

今日も南無観世音菩薩。

あぁ観音様、今日もありがとうございます。

さぁ帰ろう。

 

観音巡礼はつづく。次回東京へ。

【0038 観】神仏の島 弁財天に彩取られた水辺楽園と観音信仰

あれだけ小さく見えた竹生島が、近づくと山に見える。

潮風の匂いがしない。

淡水の空気感に爽やかな無臭感。

船着場から島内の僅かな入江に、おみやげ屋さんが並ぶ。

水辺で、淡い夏色の観光旅行の風情がいい。

カキ氷、アイスの案内が、

日差しと共に心に揺さぶりをかける。

店の前を通り抜けようとすると、早速うちの子はカキ氷のトラップにハマる。

 

「まずは、お参りしてからね」

 

甘味トラップをくぐり抜け、階段が立ちはだかる。

狭い島では崖のようだ。

階段を見上げたところに本堂がある。

 

そこには、島のメイン弁財天さまが鎮座する。

 

祈りの階段とはよく言ったもので、ハぁハァ。

人間工学に基づかない石段を、

一歩一歩で立ち止まりながら昇る。

 

観音様は、どこなんだ。

 

どこから寺でどこが神社か、混在化してるのでよくわからない。

観音様はどこにいらっしゃるのかな。

取り急ぎ、本堂の弁財天さまに向かって昇る。

 

弁財天は、元々インドの神を仏教が取り入れたもの。さらに日本神々とも合わさってパワーアップ。

神仏習合の見本。

元々色々な神や仏が混ざってるもんな。

弁財天さま自身が、日本の神から市杵嶋姫命(いちきしまひめ)水の神、海の神・子守の神・財宝の神・交通運輸の神・技芸の神。

インドヒンドゥーの女神サラスヴァティーから、水(湖)の神様で芸術・学問・知恵の神として仏教に取り入られて、

仏教では、仏を守る守護神の天部として弁才天と呼ばれ、日本に入って財宝の財が入って弁財天となっている。

総合してみると、

水辺に、

芸術に

財宝に

守護神で

女性に

知性。

が特長。

ご利益はかなりありそう。

 

琵琶湖にポツンと浮かぶ神の島。

 

竹生島が、それを表したかのように神と仏の一体化したワンダーランド。

 

本来、日本はこうでなくっちゃいけないよ。

寺が潰され、神社とわけられてしまった。明治期の廃仏毀釈が悔やまれる。

 

子供達は、

階段を楽勝に登り切り。

こちらは、遅れてやっとのことで階段を昇りきる。

デカイな。

本堂。

ご立派。

島のサイズからしたら、こんな立派な本堂があるんだ。

以前にも来たことがあるがもう忘れている。

改めていいな〜。

 

正面に大弁財天の提灯が掲げられており。

堂内の薄暗い中からのパワーが伺える

大だもんな。

弁財天の中でも、大(だい)はここだけ。弁財天の中の大弁財天。

 

堂内に入ると、赤い手のひらサイズのだるまで埋め尽くさせてる。

「弁財天様の幸願いダルマ、一体500円。」

中には、願い事を入れ奉納する。

こんなに一杯願い事、弁財天さまも受けるの大変だな。

その数不明。

めちゃめちゃある。

赤色がいい。

フォトジェニック。

インスタ映えってかんじ。

堂内左右には、弁財天坐像が奉納されて据えられている。

戦国武将の浅井長政の父も弁財天様を製作して奉納しているとのこと。

 

しかし、真正面の御本尊は伺えない。

閉ざされている。

隙間を除くもの暗くてよく見えないな。

秘仏

60年に一度にご開帳。

次回が2037年

一生に一度見れたらいいとこだよな。

仮に見れるとしても、船で渡らなきゃならない事を考えると、延人数も限られる。

最初で最後のチャンス。

巡り会えるかな。

2回見ようともうとすろと、6歳ぐらいで見られたとすると、記憶残るかな?次が66歳。20歳で機会に恵まれたとして、80歳だと寿命が迫ってるかも。30歳だと90歳にも、仮にも生きてても歩けるかなとなってくる。

前回が1967年ってことは、私だとすると次回を逃すと110歳超えなきゃいけない。

最新科学では、理論上120歳まで生きれるとのことだが・・・。

長野善光寺の御開帳イベントは有名だが、7年に一度。

これも超ビックイベントだが、ただこれはお前立ちと言われるレプリカで7年に一度。

御本尊は今だ誰も見たことがない秘仏

寺の人も見れない。

まだ、60年に1回でも御本尊見られるのでまだマシかな。

ほんと大事にされてきているってことか。

 

この時間の流れは貴重なだ。

逆らえない。

自分の人生なんて、この御開帳の時間軸をまえにすると、ほんの一瞬に思わされる。

 

戦国の武将 織田信長のドラマの最後といえば、明智光秀に寝込みを襲われ炎の中で白装束で演目の敦盛を舞って、炎の中に包まれていく。

「人間(じんかん)50年 

  下天(げてん)の内をくらぶれば

    夢幻のごとくなり

 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか」

 

信長のすごい人生でも47歳の生涯。

これだけ凄い人物も人間亡くなるのです。

すごい人生も考えもかも。

 

燃え盛る中で、記録は取れないだろうから、言ったかどうかは本当のところは不明でしょうが、人の人生は高々50年、最近は伸びたといえども80年〜90年。

神や仏の感覚からは、確かに私の人生は誤差レベルに。

 

竹生島は、法厳寺は、1300年レベル。

歴史の積み重ねで語れるのがすごい。

これぞ日本。

創建は奈良時代。亀神元年724年。聖武天皇から続く。

特に戦国時代が熱い。

浅井vs天才信長、引き続ぐ秀吉の影響を受けた北近江(滋賀県)を語る。

 

歴史ある西国巡礼三十三ヶ所第30番札所でもある宝厳寺

 

そうそう観音様へ。

どこから行けばいいのか。小さい島ながら迷うな。

観音堂へ。

2013年から、残念ながら法厳寺の寺宝とも言える唐門、観音堂が修復工事中。

極彩色の唐門(国宝)

また今度だな。

綺麗になった、唐門に観音堂は安土桃山に戻してくれるのかな。

信長の建てた安土城はないし。秀吉の建てた大阪城も鉄筋コンクリートに変えられてる。

ただ、秀吉がたてた幻の大阪城の遺構が唯一残っているのがこの唐門。

なぜかここ竹生島に移築されている。

安土城大阪城も現物が残ってたらとんでもなく絢爛豪華だったろうな。

この安土桃山時代は、狩野永徳長谷川等伯の障壁画などから大胆で繊細で、すごかったろうな。

その片鱗がここだけ残されている。

 

唐門の裏には観音堂重要文化財)が隣接している。

西国巡礼の目指すところだ。

 

千手千眼観世音菩薩(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)

 

何もかも見守る千眼。

人々を漏らさず慈愛に満ちた救済をする。

 

お住まいの観音堂は修復中だ。

 

これもまた、たまたま今は修復しているから見られないけれど、

そもそも御本尊は伺えない。

閉ざされている。

秘仏

弁財天さんと同じ60年に一度にご開帳。

次回が2037年

一生に一回だな。

最初で最後のチャンス。

 

また来れるだろうか。

人生の楽しみの一つとして残しておこう。

 

千手千眼観世音菩薩を納めた観音堂から

順路、都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)へ。

神仏ワンダーランド最後のアトラクションへ。

渡り廊下でつながる。

 

神社へつながる渡り廊下が、

舟廊下と呼ばれ重要文化財

 

舟廊下は朝鮮出兵のおりに秀吉公のご座船として作られた日本丸の船櫓(ふなやぐら)を利用して作られたところから舟廊下。

重要文化財で、繋ぐ。

学校の渡り廊下とはちょっと重みが違う。

これも唐門、お御堂と同時期に桃山様式で作られたもの。

ここまで宝厳寺

 

次回、都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)へ。

【0037 観】北近江の戦国絵巻を残す 湖北竹生島法厳寺への船旅

前回からの続き、長谷川等伯の生きた時代へ。

 

長谷川等伯は絵師として京都に上る。

私たちも、家族で妻の実家を目指して京都に上

る。

 

能登から京都に向かう途中、また寄り道して、北近江(滋賀県)の神と仏の竹生島に寄って行くことにする。

竹生島は、琵琶湖の中に浮かぶ神秘の島

パワースポット。

戦国武将達にも愛されていた。

西国巡礼三十三ヶ所第30番札所でもある宝厳寺があり、観音様にも会える。

 

長谷川等伯の時代、北近江(滋賀県)は、織田信長と絡む戦国武将が群雄割拠していた。

 

織田信長が、尾張(愛知、岐阜県)に出現。

京都へと西にへと進出。

京都までの通り道、琵琶湖、滋賀県が激アツの戦いの場に。

寺院も武装化

加賀一向一揆などにみられるように、町ごとに団結して武装していた。

 

旅路は安全は大丈夫だったのだろうか?

不安だ。

 

そんな時こそ。

 

「南無観世音菩薩」と一心称名(しょうみょう)。

 

観音経を唱えれば‥‥。

 

悪人どもに追われ、高い山から落ちても、この観音の救いを心から念ずれば、髪の毛一本傷つかない。


また強盗に囲まれ刀で殺されそうになっても、観音の救いを心から念ずれば、彼らの心はたちまち優しくなってしまう。


あるいは国王に捕えられ、刑場で処刑されそうになっても、この観音の救いを心から念ずれば、刀がばらばらに折れてしまう。


あるいは牢屋に入れられ、鎖につながれても、この観音の救いを心から念ずれば、たちまちに鎖は解けて自由となる。

 

これら観音経に、こんな功徳が書かれているのだ。戦国の世にはピッタリ。

現代訳だとマンガの世界だな。

 

しかし、この現代まで未だ生き続けている教えなのだ。

日本で長く広く愛されている教典。

 

でも。何気なくこの戦後の日本においては、ありえないことと感じるかもしれないが、よくよく考えてみると、私たちの安全な旅路も、いつ交通事故に遭うかもしれない。

地震があるかも知れない。

ミサイルも飛んできている。

 

旅行、遊び、恋愛、習い事、仕事にしても前に進むには、勇気がいる。

挫折するかも知れない。

事故で体ではなく、心が傷つくかも知れない。

 

事故がないと思いこんでいるだけで、前に進めているだけかも知れない。

 

同じタイミングに生きていてる他の国では戦中でもあるわけで、たまたまこの場所が平和なだけかも知れない。

 

ちょっとしたことで、平和すぎる故に、家族関係、仕事、病気、友人、恋人のことで前に進めなくなることも。

 

そんな時の自分を支えてくれるものかあるのかないのか。

信じるものがあるのかないのか。

 

こころへの支えがあるから一歩前へ再度歩きだけさせる。

 

戦国の世。武士といえども人間だから、観音様の慈悲に限らずとも信じるものがなくては、一歩たりとも外には出られないのではないか。

好き好んで、危ないことに会いたい奴はいない。

観音経は、一見、奇想天外なものの感じるかもしれないが、現代でも何かしら大丈夫だと信じているから家の外に出られるのであって、そうでなければ一歩も外には出られない。

何気なく立つことさえ、無意識に立てると思っているから立てているのであって、アルプスの少女ハイジの親友クララも立てないと思い込めば立てない。

立てると思えば立てる。

何かしら無意識に信じるものがなければ、ひきこもりにもなりかねない。

危ないことを避ける基本防衛本能は重要だ。

ただ、ある程度防衛も働かなくてはならないが、ありもしないものを想像してしまい働きすぎる毛らいもある。

安全思考も度が過ぎれば、鬱とも診断される。

 

そんな時、観音経は勇気をくれる。

唱えた人しかわからない。

勇気が湧く。

唱えた人しかわからない不思議。

観音様の力のか?

 

何事もやってみなければ、どうなるかなんて分からない。

できるかも、という僅なものでもいいのだ。

後押し。

信じれる心が必要だ。

 

長谷川等伯は、何を信じて、勇気を持って京都に上っただろうか。

立身出世に突き動かしたものは何か?

 

戦国の武将も、負ければ死を覚悟しなければならない。できれば戦わず成功を手に入れたかっただろう。

そうもいかない時代、自分だけではどうにもならない時の流れの中、勇気を振り絞って出陣しなければならなかっただろう。

 

リングに上がったボクサーは、平和を思おうとも疲れて休んでいたら、相手が殴ってくるのだから休めない。戦国の武将は、レフリーもいない世界。やるかやられるか。最後までとどめを刺すか刺さないか。

 

死と背中合わせに、生きるという消せない本能の欲と絡み合う戦国の世は、人間の全てを曝け出す、そして能力をも最大限に引き出す。 

 

生きる象徴でもある安土桃山時代の絢爛豪華な金箔が溢れ出る絵画から、死を覚悟する詫び寂びの大成の千利休の茶道などなど、生きる死ぬの本気度。

アートな時代。

 

長谷川等伯(1539〜1610)の生まれた年を中心に、前後に生まれた北陸・近江に絡む戦国武将と重要人物を生没見てみると。

そうそうたる人生を歩んだ人物が並ぶ。

 

生まれ順に並べみる。

 

みんな命掛けで生きてる。

 

生まれ年順。

 

柴田勝家(1522?〜1583)

織田家宿老、信長の元、越前(福井県)や近江(滋賀県)も転戦、味方であり、最後は敵であった近江の戦国大名浅井長政を、浅井家を信長の元で滅ぼし、越前を治める。信長の妹であり、浅井長政の継嫁でもあるお市を正妻に、信長亡き後の後継争いで秀吉に敗れ、お市の方と共に最後は自害。

 

千利休 (1522〜1591)

侘び茶の大成者。堺で生まれ、信長から秀吉からも茶堂として召し抱えられる。超一級の文化人。最後は秀吉との関係が悪化して、切腹させられれる。

長谷川等伯 の描いたと言われる「千利休像」からも、関係性が窺える。時代のトップまで昇り詰めた文化人としてのプライド高き生き様が考えさせられる。

 

朝倉義景(1533〜1573) 

越前(福井県)の守護大名、信長に対抗して浅井家と同盟。一時は信長を窮地に追い込むが、浅井家を滅亡させた後の信長の前では、名門もあっけなく攻め落とされる。最後は味方にも逃げられ自害。

 

織田信長(1534〜1583)

桶狭間の戦い等、説明要らず。

美濃岐阜を統一。浅井家と同盟と戦い苦戦しながらも、浅井朝倉軍を撃破、比叡山の衆徒は浅井朝倉軍の味方をして焼き打ちに合うが、北近江浅井に位置する竹生島宝厳寺には、なぜが庇護している記録もあり。

近江(滋賀県)に安土城築城。

あと一歩で天下統一のところ、京都本能寺で明智光秀の謀反で討たれる。

日本史の中でも、大河ドラマに最も相応しいドラマチックな人生。

 

豊臣秀吉(1537〜1598)

信長の元、頭角を表して近江(滋賀県)を与えられる。不細工で、身分も分からず、草履取りから、信長亡き後、大阪城をも築き天下統一。

これぞ戦国の下剋上

太政大臣まで出世。貴族だよ。

立身出世の人生。

秀吉の正室寧々(豊臣家)が、竹生島宝厳寺とは再建など関係は深い。大阪城にあった極楽橋が法厳寺に移築されている。

 

長谷川等伯(1539〜1610)vs狩野永徳(1543〜1590) 

日本最大の絵師集団、基礎を築いた狩野元信から英才教育を受けるサラブレット狩野永徳。信長、秀吉と時の権力者から安土城大阪城、秀吉の京都邸宅の聚楽第などの障壁画を一手に受ける。そこに能登から天才絵師長谷川等伯が受注競争に割ってはいる。絵師の中でも下剋上の機運の長谷川一派vs守るは狩野一派の激突。永徳が立ちはだかる苦心の為か48歳の若さで亡くなる。過労死とも言われる。

残る等伯は、永徳没後も筆をとり続け享年72歳。

絵師集団を率いて突き進んだ人生は、残された絵画からも迫力が伝わります。

共に、日蓮宗のお寺にお墓があり、法華経、観音経にと出世街道を歩いたのではないかと勝手に思っております。

 

浅井長政(1545〜1573)

北近江の戦国武将。竹生島は浅井姫伝説が残り、浅井名前からも深い縁で氏子でもあり、浅井長政ともゆかり深い。

織田信長の妹、お市の方を妻に迎え、同盟も結び浅井家の発展に尽くすも。

朝倉家との関係からか?信長との同盟を破棄。

信長に姉川の合戦で敗れ、小谷城で追い詰めれら自害。

 

お市の方(1547〜1583)

信長の妹であり、浅井長政の妻。

織田、浅井家の同盟関係から浅井長政に輿入れ。

浅井長政が同盟破棄するも、お市の方織田家に帰らず長政と共にするも信長に攻められ夫は自害。

織田軍に3人の娘と救出され、信長死後に織田家家臣の柴田勝家に嫁ぐ、勝家が秀吉と対立。

賤ヶ岳の戦いで夫の勝家が敗走、越前北ノ庄城で夫が自害するのと共にする。

天下一の美人と言われドラマ性たっぷりの人生。

 

長浜港から琵琶湖汽船に乗って竹生島に向かう。

静かな湖北の湖面から平和な巡礼から今の私の人生と比べる必要もないが、比較すると皆壮絶な人生。

「南無観世音菩薩」

と危機に一心称名(しょうみょう)

でななく、

この旅行している状況に

「南無観世音菩薩」

感謝。

 

30分もすれば、竹生島が見えてくる。

湖北にポツンと浮かぶ島の姿はほんと神々しい。

 

島のほんの僅かな隙間だけ、

船の停泊場所がある。

あとは木々に埋まっている。

下船の準備だ。

西国巡礼三十三ヶ所第30番札所でもある宝厳寺は目の前へ。

【0036 観】法華経と上京、長谷川等伯の旅路

前回からの続きから、法華経は、勝手な解釈かをすると、挑戦する勇気の後ろ盾になるなではないか。戦国の世、世に出る出世する為にはとてもいい経典と思う。

仕事も責任感も出る立場になって、悩みや能力以上の結果を求められるようになって、色々な本を回り回って、チラッと仏教の本をかじりだすと、お葬式の呪文ではなく、経典やお経が、生きている人への教えが本来の趣旨なんだとわかってきた。

今までは、死んだ者への供養かと。

墓参りで、なみあむだぶつの呪文風に唱えたばかりなので尚更思う。

実は違っていたんだとは、お釈迦様の教え、この世の仕組みに、ハッピーに生きる為の極意書なんだ。

死と生きる為の究極の理解へ。

複雑な世の仕組みの理解と論理。

あ、わかった!

生きていく為へ。

覚り、悟りへの導き。

経典は人生の指南書であり、その中でも、法華経は、元気一杯に生きている人に悟りを開かせ人生の成功に導く、今生きている現世に役立つ自己啓発本の巻ってところだろうか。

一般に、社会に出て能力が高く、自分の力を発揮できる人、ベンチャー企業の社長など法華経の指南書がとってもいいんじゃないかな。戦国の世なら町人衆や武将など、自分の力で勝ち上がる人だろうな。そういう意味でも長谷川等伯には、法華経の指南書はピッタリ当てはまる人生と思う。

長谷川等伯が、七尾から京都の都に出て絵描きとして立身出世していく、安土桃山時代のトップ、いや日本歴代最高峰といえる絵師軍団の狩野派の総帥、狩野永徳にガチンコで有力社寺から戦国大名からと絵画の受注競争を繰り広げる。

受けて立つ方狩野永徳も、チャレンジしていく長谷川等伯側も、このような頑張る人たちには法華経の教えが強力に後ろ盾となっているのではないだろか。力強い教えがライバル同士の激突によって途轍もなく力強い絵画を世に生み出していく。

のちの国宝となるまで互いに頂点を極める。

 

戦国の世の中、長谷川等伯は、石川県能登七尾から旅立つのである。

 

私もならって旅立つのである。

 

旅立つに当たって、安部龍太郎さんが描いた小説「等伯(上)」のストーリーが面白い。長谷川等伯がとある事件に巻き込まれて、長谷川家から追放され七尾の故郷を追われてしまう。そして、戦乱の中、京都の都に上る。絵師として駆け上がる歴史小説、謎が多き長谷川等伯の人生が、小説だけあってドラマチックに描かれていてとても面白かった。

 

小説の趣旨からずれるのですが、等伯が石川県の七尾から京都に向かうルートと現代と比較が面白い。このブログは、観音巡礼なので昔の旅のルートに興味を惹かれる。

等伯が、実際に通ったかどうかは置いておいて、事件に巻き込まれた等伯が妻子と都(京都)に向かうルートが小説で描かれていて、七尾から能登半島陸路を、千野、江曽、二宮と陸路をたどり芹川にいたる。

確かに地図にある。

今ならJR七尾線の感じかも。七尾駅から二宮駅で下車するみたいなものか。

ここで川舟に乗り換えるのも面白い。

芹川が長曽川となりくだっていける。

これ昔の有料高速道路だな。

間もなく広々とした湖にでる。あ、確かに能登半島西岸の羽咋(はくい)までつづく邑知潟(おうちがた)に川が流れていく、今はほとんど埋め立てて平野化しているが、水運の大動脈だったんだ。

邑知潟からは羽咋川を通ってすぐに海にでられる。

日本海が広がる。

羽咋川の河口右側には、能登国一宮の気多大社が鎮座しており、その先には、等伯仏画を残している日蓮宗の北陸本山妙成寺もあり。

左側には自動車でも砂浜を走れる渚ドライブウェイの千里浜、等伯の松林図屏風ではないが、砂浜と松林がつづく。

七尾から羽咋(はくい)まで、朝に七尾を出発すれば夕方には羽咋に着く。

なるほど、なるほど、そんなルートがあったのか。能登の西岸からみる夕日はめちゃくちゃ美しかったろうな。

能登羽咋(はくい)から船に乗って、日本海の海で越前(福井県敦賀港に入るルート。これなら風がよければ早いよな。

越前(福井県敦賀に到着すると、越前国一宮気比神宮が待ち受ける。

能登一宮から越前の一宮へ。

氣多大社から氣比神宮

神様の「氣」の旅にも感じる。

ここから、再び北国街道が現れる。

善光寺からの信州北国街道。

越前(福井県)と近江(滋賀県)を結ぶ北国街道。

今回の旅は、2つの北国街道で繫がっている。

昔のルートでは、北国街道から琵琶湖最北端にある塩津港があり、そこから船で大津へ。

なるほど。

こちらも風向きがよければ琵琶湖を一気に大津まで行ける。

もう京都は目の前だ。

京都山科を抜けて、東海道の都への入り口の粟田口から上るのか。

京都と七尾が、海路で風がよければ、川と海と湖のおかげで意外と近い距離に感じたかもしれない。

 

今は、北陸自動車道で陸路の愛想ないが車を走らせれば直ぐだ。もしくは、JR西日本の特急サンダーバードで4時間前後で京都に入れる。

昔のルートには風情があるな。

川に船に海に山に琵琶湖に。

今、仮に昔のルートで行くと贅沢な旅だ。

 

私は、スタートの七尾時点で既に寄り道して、日本一の温泉旅館「加賀屋」さんのすぐ側、七尾湾の波打ち際に建つカフェ「ル ミュゼ ドゥ アッシュ」に立ち寄る。

このカフェは、クープ・デュ・モンドなどの洋菓子の世界大会に日本代表にもなり、数々のコンクールを受賞して、オーナーパティシエ・ショコラティエとして、上京して大成功している七尾出身の辻口博啓(つじぐちひろのぶ)さんのお店だ。

「ル ミュゼ ドゥ アッシュ」は、ミュージアムも併設されていてケーキも販売している

ミュージアムには、辻口語録としてなんと、

「ライバルは等伯だ」と掲げられているではないか。

辻口さんが身をもって体験されてきたであろう夢と努力は、スイーツも頂点を極めればアートであり、立身出世は確かに等伯と重なる。

 

七尾湾の波打ちの音。

潮風にケーキに珈琲を飲んで癒しすぎた。

 

さぁ、私たちも西国に旅立たなきゃ。

 

石川県七尾で、何事も極めればアートを感じながら、今度は羽咋市(はくいし)千里浜なぎさドライブウェイで、またもや地元グルメに捕まる。

千里浜名物、練り物「いかだんご」を食べ、花より団子となる。

ここより美しい砂浜がずっと続いていく。

 

爽快に潮風に中、車を走らす。

砂浜の上、日本海の波をすり抜けるドライブは最高に気持ちいい。

砂浜は延々と続き、焼きハマグリ屋が点々と並ぶ。またもや我慢できるわけなく、浜茶屋に吸い込まれハマグリを焼く醤油の香りと味に卒倒する。

世界一をめざす人たちとは程お遠い旅路。

 

ただ、こんな日常が世界一幸せかもしれない。

 

グルメトラップにすべて捕まりながら、やっとのことで金沢(加賀)インターまでたどり着き北陸自動車道に乗って越前(福井)そして近江、京都に近い海、滋賀県琵琶湖へと車を進める。

目指すは、北陸自動車道の長浜インター。

そして、

北国街道から

琵琶湖長浜港へ。

琵琶湖の最北にぽつんと神秘的に浮かんでいる竹生島

そこは、神と仏の島。

乗船して西国三十三ヶ所第30番札所 宝厳寺がある。

 

次回、長谷川等伯と北陸近江の戦国絵巻へ。

【0035 観】観音経、長谷川等伯から戦国へ

墓参りも済ませて、おみやげ見たりするのはよく七尾の町まで出かける。

おみやげ買うのも楽しみのひとつだ。

あちらこちらと転勤や旅行をしていて、石川県は日本有数のグルメ県と思う。

美味しいみやげには目移りする。

真冬の寒ブリの刺身なんて口の中に入れると脂が消えてなくなるようだ。今まで食べたブリは本当にブリだったんだろうかと疑ってしまう。メスのズワイガイニがこちらではセコガニと呼ばれている。甲羅の中にある卵が内子に腹部の外子。これが又美味で普段こんなもの見たことない。

とにかく、珍しいものが多い。能登は塩もとれて新鮮な鰯からいしる(魚醤)を、ぬか漬けにして鰯のコンカ漬け、フグもぬか漬けにして、猛毒の卵巣までも食べられるようにしてしまう。まだまだ、ナマコから超高級食材のくちこ、どれもこれも珍味で酒の肴には嵌ると、とんでもなく日本酒がススム。もしくは白ご飯が進んでしまう。

七尾の町にある能登の海鮮食材を販売している「しら井」さんに寄って、とろろ昆布などなどを買いに行く。

昆布を鉋(カンナ)で挽いたような、透き通るとろろ昆布を口の中にいれると、昆布の香りが淡く現れ消えていく。ニシンの昆布巻きに、ブリ巻きにと美味しすぎる。

 穏やかな湾内に港を持つ七尾は、日本海の有数の寄港地であり、大坂、京都へ運ぶ北前船の重要地だったのが、おみやげの昆布などからもうかがえる。

 

戦国の世に戻すと、七尾は畠山氏からになるだろう。

畠山氏は、室町時代には室町将軍に次ぐナンバー2の三管領家となり、斯波氏、細川氏に割って入って、室町幕府の政務を預かる守護として、重要拠点の県知事みたなものか、大和(奈良県の一部)、河内町(大阪の東部)、紀伊(和歌山)、近畿圏の重要な周辺都市。北陸越中、分家は能登の守護としても任されるようになる。

三管領家に四識(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)をも含め、有力守護大名家督争いからズルズルと応仁の乱(1467年〜1477)と発展し長引き、更に将軍家も交え、公家も交え最終東西を二分する戦いになり、京都の町は焼け野原となる激しい戦いも、誰も勝者がないグダグダ決着。公家の荘園は没落、地域の管理もグダグダ化、一揆や町自身の自立自衛と、戦国の世の切っ掛けになっていく。

その後、能登畠山氏は、7代目畠山義総(よしふさ)1515年〜1545年が各地の一向一揆をまとめ上げ、守護大名から戦国大名と世の変化に対応。難攻不落の山城七尾城をリニューアルし都市再設計。城下町には商人や手工業者も集まり、義総(よしふさ)が文化教養の理解もあったことから戦乱から逃れてきた文化人をももてなし、軍事、商業、文化と能登七尾の繁栄を迎える。

その時に、ひとりの絵師、長谷川等伯がここ能登七尾で1539年に出生される。

戦国の時代に突入する時代だ。

のちに日本最高峰と言っても全然過言でない水墨画、国宝「松林図屏風」を描いた天才だ。

一度は実物を見てみたいと思う日本画のひとつだ。

たった数本の松を、白と黒の濃淡だけで描かれている屏風なのだが、なんとも言え気持ちになる。白黒濃淡だけだで幽玄な空気感、400年も前とは感じられない時空があらわれる。屏風という平面の紙なのに、見る見る松の林に吸い込まれていく、どこまでも奥深いのだろうか、幽玄な霧の中にココロまでも吸い込まれる。

実物でなくとも、美術図鑑の写真からでも十分感じてしまう。

どこで、いったいどの松を描いたのだろうか?この濃密な湿った空気感は、等伯が育った能登の沿岸の松林ではないのだろうか。この日本独特の空気感までこの絵から嗅げる。海外の絵画では絶対に出会えないグレートな作品だ。そりゃ国宝になるわな。

なんとも言えない物寂しさと淡い朝霧のような明るさは、見る側のココロまでも浮かび上がらせ、自分自身を投影してしまう。なので、人それぞれの味方、タイミング、年齢によっても変わるだろう。今は、墓参り後であり、折り返しを超えた自分の年齢からか?

死を迎える物寂しい気持ちが

浮かび上がってくる。

死に対しての悟り。 

生きることの悟り。

この絵には、仏教の極意の悟りまで到達したような感じがする。仏を描かずとも仏画ではないか。

 

長谷川等伯は、畠山氏の下級家臣、奥村家の子として生まれ、長谷川家に養子に出されて長谷川姓となり、仏絵師として長谷川春信として、北陸地方の寺院に名前が知れ渡っていくていく。

絵師の仕事として、七尾の生家の菩提寺、本延寺(ほんねんじ)では木造の日蓮聖人座像の彩色、能登羽咋(はくい)にある妙成寺(みょうじょうじ)に、「日乗上人画像」、「仏涅槃図」でいずれも日蓮宗関連のお寺で多く残されている。

この日蓮宗は、開祖の日蓮さんが法華経こそが絶対の経典と信じ切って布教し、もともとは法華宗と言われていた。今では、法華宗の名前が日蓮宗となれども、後世に法華経を信仰の柱にした分派が多く残ることとなった。そもそもそも法華経は「妙法蓮華経」が正式名で、日蓮でなくとも古い時代から聖徳太子天台宗最澄にと日本仏教会の中心にあり続けた大人気経典だ。その法華経の一部が、一部の章が「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)」であり、「妙法蓮華経 観世音菩薩 普門品 第二十五」。普=あまねく。門=扉が開いている。広く衆生を済度しようとする広大な慈悲の門を開いている。品(ほん)=章。法華経の二十五章。普門品=観音力であまねく広大に衆生を救おうとする慈悲の章。このブログの観音力を称え上げる最重要な根拠元でもあり、法華経の中でも人気の章。この品=章をピックアップして、あたかも独立した経典のように扱って「観音経」として扱われてきたが、法華経の一部なのだ。ただ、「妙法蓮華経」があって観音経だが、観音経の人気が「妙法蓮華経」の人気を高めているとも言えるのではなかろうか。

長谷川等伯は、想像だが法華経に観音様にその経典の真髄を掴んでいた人ではないか

法華経の経典の教えは、いい絵を描くのもしかり、商売繁盛に、危険な時の助け、さまざまな功徳の教えがあり、この三十三観音霊場巡りの重要なエッセンスでもあるにも関わらず、法華経を知る機会もなく、知らない人の方が多いのではなかろうか。

私がその代表者と言える。

南無、妙、法、蓮、華、経、なんみょうほうれんげきょ、呪文かと思って意味は知らなかった。

知っても、知らなくても別に巡礼には支障はないといえど、唱えれば結構元気になれるこの観音経。

巡礼にも華が添えられるのではないか。

 

観音経。

美術。

戦国の世。

寺には記録されている。

巡礼、旅のエッセンス。

 

長谷川等伯が、京の都に絵師として、腕一本で、巨大絵師グループの総帥、狩野永徳に立ち向かう様。

人生を掛けて、

北陸能登七尾から、

京の都に旅立つ。

その姿にに掛けて、

憧れて、

平和な世の我々は、関西の西国霊場へと、おみげも買ったし、妻の実家の京に向かおう。

戦国の世を思いながら北国街道へ。

次回へつづく。

【0034 観】お礼参りから能登墓参りの北陸旅

善光寺への坂東三十三ヶ寺の結願(けちがん)のお礼参りは、石川県能登半島にある私の父へ久しぶりの墓参りへの豪華な寄り道でもあって、本来の目的である父が眠る能登方向に車を向ける。

関西からは、姉の家族と共に母も車に乗せて同じく墓参りに向かってくる予定だ。

能登半島の墓守をしてもらっている叔父さんの家で久しぶりに顔を合わせられる。

観音巡礼からすると、私たちは関東(坂東)から、姉たちは関西(西国)からそれぞれ北陸の石川県能登半島に向かう。

家族で全員集れるタイミングを作るのも中々難しいものだ。特別な待ち合わせ地点を用意してくれるのも観音様の粋な計らいかもしれない。

亡くなった父から孫まで全員集合できるなんてそうそうない。

観音様のありがたい慈悲バワーなのだろう?

としか考えられなくなっている自分もいる。

 

坂東三十三ヶ寺の観音さまの結願(けちがん)と善光寺の線香と、かわいい娘をお土産にして、北国街道を並行する上越自動車道を安全運転で目指す。

北アルプスの誉れ高い山々、黒部渓谷などに通せんぼされるので、新潟県から富山県にと、北陸街道を遠回りに廻り道するように進む。

一直線に長野から石川県には進めない。

トラックの長距離ドライバー気取りで運転に集中する。

 

栃木からスタートして、昔の地名なら下野(しもつけ)、上野(こうずけ)、信州で寄り道した北向観音善光寺、越後、越中から能登に向かう。古いの地名の方が巡礼にはよく似合う。あんちょこに歴史家気分に浸れる。車も更に進ませ越中富山で方向を変え、能登半島に入って行く。寒ぶりで有名な氷見漁港の脇を通り抜けて、今は能越自動車道も出来ており、石川県能登七尾まで一気に進める。戦国、江戸時代は、どんな旅だったのだろうか?馬?舟?カゴ?歩き?

歴史の本を引っ張り出して読んでいると、日本国中、思ってた以上に人の移動は頻繁に行われているような気がする。古い神社やお寺の広がり、観音霊場も日本各地に散らばっているもんな。江戸時代だと街道も整備されていて電話はないが、手紙も各地に江戸からは数日で届いている。巡礼の旅も盛んだ。

日常徒歩が中心だとすると、峠越えはともかく平地は楽勝で歩いていたんだろうか。

私なんかコンビニ行くのも車だもんな。徒歩で巡礼は気が遠くなる。このレベルの私でも、今や車や電車を使えば日本各地の巡礼もできる。戦乱も一揆もなく関所もない。

巡礼には幸せな時代だ。

 

七尾市は、能登半島を左手の人差し指に例えると、軽く指を曲げる関節中頃にある。そこから30分位、車を走らせると父の墓がある。両親の実家もあり両親の地元だ。

夜中から出て、豪華な寄り道しすぎでやっと夕方に到着。

まる半日かけてきたが、以前と変わらない景色が待っていた。

懐かしいまでもいかないが、ホッとする。

久しぶりに叔父さん家だ。

 

みんな歳とったな〜と、当たり前の感想が浮かぶ。昔からお世話になった叔父さんの家では、子供の頃の感覚に戻される。

何故か10歳前後なんだ。

子供の頃、叔父さんの歳を越えるなんて想像もしなかったよな。既に私がその歳を超えているんだから驚きだ。

落ち着いて考えるとかなりショック度は高い。

おそらく、自分の死も感じるような歳になってきいるからかもしれない。心の奥に、漠然とした不安感はあるよな?

しかし、まぁ無事に今までよく生きてきたんだな〜と感心をもすることも多いが…。

父も早く亡くなって、色々と人生あったりでもなんとかここまできたもんな。生きて生活できてるだけも当時を考えると奇跡だなぁと思うところもあるし。

ホッとしたいところだが、人生の折り返し地点の歳を過ぎると加速度的に一年一年があっという間に過ぎる。何なんだろうねこの速さ。

墓に入っている父の歳をも超えた。

このペースだともう自分も準備しなくちゃいけない。

みんな年齢を重ねてきて、もう叔父さんの歳からしても墓守も頼めないし、子供は二人とも娘だし。跡取りの息子も今更生まれないし、養子取る程の家でもない。墓じまいしなくてはならないかな〜。

能登に、そうそう娘も来れるとは思えない。下手すると、羽田からグァムの方が近いかも。難しい課題だが、私がやらなきゃいけない。

墓じまい。

 

姉たちも到着。

母のばあちゃんも、何とか連れてきて貰えた。

もう、ばぁちゃん一人では墓参りは無理だよな。キーホルダーのマスコットみたいに座ってるし。

む〜。

日本人は遺骨は特に大事にするから、先祖供養は何となくほったらかしにはできないもんな。

回りも許してはくれない。

墓じまいは、自分の責任でやるしかない。

もうこれは決意。

私の代でおわり。

 

久しぶりにみんなとの会話も楽しむ。いつまでもこの幸せが続くと思いたいのだが、人はどこかで100%死ななくてはならない。この微妙な寂しさ。

死を感じると一日一日大切なんだと思わされる。

娘はそんな事は微塵も関せず楽しそうだ。ちびっ子の若さは本当にいいね。いとこの家族も来てくれて、次世代も含めてその夜は楽しみ、ゆっくりさせてもらう。

 

落ち着いて翌朝墓参り。

 

地元にいる親類にも久しぶりの挨拶をして、村の裏山の坂を登って墓を目指す。

ばあちゃんは大丈夫かな。なんとかついては来ているが、畦道の歩く姿…。

こりゃ今後はむりだなと、悟りに入る。

墓地に着くと、何となく墓石も減ってきた感じがする。こらからの日本は人口減だもんな。

坂を登って、着いたよお父さん、おじいさんにお婆ちゃん。

私で3代目、私でごめんなさい。

 

心に浮かぶ。

亡くなっている父は歳を取らない。

未だに私の中では、若いままだ。

下の娘は初めて連れてきたよ。かわいいでしょ観音様が連れてきてくれたよ。

墓石には、南無阿弥陀仏と彫られている。

あ〜阿弥陀さまだ。

巡礼のお陰で、墓石を見る目も変わってきている。仏教知識で見えてくる。

先日、善光寺で胎内めぐりで阿弥陀さまの側までは行ってきたよ。絶対秘仏阿弥陀さんは見られないが、豪華絢爛の内陣で極楽浄土を見てきたよ。

お土産で線香もあるからね。

墓は何とかしなちゃいけないから、もうちょっと観音さまの力借りるわ。まだ、楽しく生かせてもらってなんとかするよ。

まだまだ、頑張って働かなくちゃ。

子供の成長も見たいし、欲が一杯あるからね。

悩みは多い。

ロウソクに、線香、数珠、みんな集合。

手を合わせるよ。

なまんだぶ。なまんだぶ。

 

なもあみだぶつ。

改めて、浄土真宗なんだなと思う。

南無阿弥陀仏

墓石に彫られてある。

南無阿弥陀仏

 

あ〜阿弥陀さま。

 

墓の前では自分も死ぬんだなと思うようにはなってきた。

 

死んだらどうなるんだろうか。

 

墓前でも誰も教えてもくれない。

誰もわからない。

お坊さんも本職ではあるが、説教もしないし、人間だし習えない。

大学教授だろうが眉唾回答しか出せない。

信じるものがない。

父は、あっけなく脳卒中で倒れて、そのまま何も死のことは言えないまま。他にも言いたいことはあったかもしれないが、一切語ることなく逝った。

何気ない漠然とした死への怖さかな。感じるようになってきた。

まだ、死にたくないもんな。

この歳にもなると身近に近づいて死に対して、何か…。

もの寂しさを感じる。

ここでひとつ和らげてくれる発見があった。

観音様の安心感。

三十三観音

これだけ沢山の観音様に参りしていると、心の中に入ってきた観音様の慈悲か?死に対して少し楽にしてくれている感じがする。

亡くなった後、よくわからないが一人旅立つ孤独感が薄まる。

観音巡礼のお陰かもしれない。

観音さまの慈悲深さ。

庶民の欲に対する優しさ。

先には、阿弥陀さまの極楽浄土まで連れてってもらえるような安心感。

三十三観音の廻った数ではない、その観音様の心に入った感じがそうさせる気がする。

墓石には、南無阿弥陀仏と彫られているという事でも、あ〜阿弥陀様にも救って貰えるのだろうか?

ただ、観音様が心に何もなかったことを思うと全然違う。

少し救いになる。

仏教宗派でも、浄土真宗の開祖親鸞聖人は、悪人でも救ってもらえると解いてくれている。

私になんかにはとても優しい教えだ。

ばあちゃんも頼んでおくよ。

死に対する不安感を観音様が優しく見守ってくれていることに気づかしてくれる墓参りになったかもしれない。

三十三観音巡礼これだけで十分価値があったと感じる。

誰もが迎える課題だか、答えも何もない。

そんなよくわからない人の儚い人生、死ななきゃならない微妙な気持ちにひとつの安心をもたらしてくれる。

観音さまありがとう。

 

次回は、能登七尾で生まれた天才絵師の長谷川等伯の生き抜いた戦国時代から関西(西国)へと旅は続く。