前回からの続き、長谷川等伯の生きた時代へ。
長谷川等伯は絵師として京都に上る。
私たちも、家族で妻の実家を目指して京都に上
る。
能登から京都に向かう途中、また寄り道して、北近江(滋賀県)の神と仏の竹生島に寄って行くことにする。
パワースポット。
戦国武将達にも愛されていた。
西国巡礼三十三ヶ所第30番札所でもある宝厳寺があり、観音様にも会える。
長谷川等伯の時代、北近江(滋賀県)は、織田信長と絡む戦国武将が群雄割拠していた。
京都へと西にへと進出。
京都までの通り道、琵琶湖、滋賀県が激アツの戦いの場に。
寺院も武装化。
加賀一向一揆などにみられるように、町ごとに団結して武装していた。
旅路は安全は大丈夫だったのだろうか?
不安だ。
そんな時こそ。
「南無観世音菩薩」と一心称名(しょうみょう)。
観音経を唱えれば‥‥。
悪人どもに追われ、高い山から落ちても、この観音の救いを心から念ずれば、髪の毛一本傷つかない。
また強盗に囲まれ刀で殺されそうになっても、観音の救いを心から念ずれば、彼らの心はたちまち優しくなってしまう。
あるいは国王に捕えられ、刑場で処刑されそうになっても、この観音の救いを心から念ずれば、刀がばらばらに折れてしまう。
あるいは牢屋に入れられ、鎖につながれても、この観音の救いを心から念ずれば、たちまちに鎖は解けて自由となる。
これら観音経に、こんな功徳が書かれているのだ。戦国の世にはピッタリ。
現代訳だとマンガの世界だな。
しかし、この現代まで未だ生き続けている教えなのだ。
日本で長く広く愛されている教典。
でも。何気なくこの戦後の日本においては、ありえないことと感じるかもしれないが、よくよく考えてみると、私たちの安全な旅路も、いつ交通事故に遭うかもしれない。
地震があるかも知れない。
ミサイルも飛んできている。
旅行、遊び、恋愛、習い事、仕事にしても前に進むには、勇気がいる。
挫折するかも知れない。
事故で体ではなく、心が傷つくかも知れない。
事故がないと思いこんでいるだけで、前に進めているだけかも知れない。
同じタイミングに生きていてる他の国では戦中でもあるわけで、たまたまこの場所が平和なだけかも知れない。
ちょっとしたことで、平和すぎる故に、家族関係、仕事、病気、友人、恋人のことで前に進めなくなることも。
そんな時の自分を支えてくれるものかあるのかないのか。
信じるものがあるのかないのか。
こころへの支えがあるから一歩前へ再度歩きだけさせる。
戦国の世。武士といえども人間だから、観音様の慈悲に限らずとも信じるものがなくては、一歩たりとも外には出られないのではないか。
好き好んで、危ないことに会いたい奴はいない。
観音経は、一見、奇想天外なものの感じるかもしれないが、現代でも何かしら大丈夫だと信じているから家の外に出られるのであって、そうでなければ一歩も外には出られない。
何気なく立つことさえ、無意識に立てると思っているから立てているのであって、アルプスの少女ハイジの親友クララも立てないと思い込めば立てない。
立てると思えば立てる。
何かしら無意識に信じるものがなければ、ひきこもりにもなりかねない。
危ないことを避ける基本防衛本能は重要だ。
ただ、ある程度防衛も働かなくてはならないが、ありもしないものを想像してしまい働きすぎる毛らいもある。
安全思考も度が過ぎれば、鬱とも診断される。
そんな時、観音経は勇気をくれる。
唱えた人しかわからない。
勇気が湧く。
唱えた人しかわからない不思議。
観音様の力のか?
何事もやってみなければ、どうなるかなんて分からない。
できるかも、という僅なものでもいいのだ。
後押し。
信じれる心が必要だ。
長谷川等伯は、何を信じて、勇気を持って京都に上っただろうか。
立身出世に突き動かしたものは何か?
戦国の武将も、負ければ死を覚悟しなければならない。できれば戦わず成功を手に入れたかっただろう。
そうもいかない時代、自分だけではどうにもならない時の流れの中、勇気を振り絞って出陣しなければならなかっただろう。
リングに上がったボクサーは、平和を思おうとも疲れて休んでいたら、相手が殴ってくるのだから休めない。戦国の武将は、レフリーもいない世界。やるかやられるか。最後までとどめを刺すか刺さないか。
死と背中合わせに、生きるという消せない本能の欲と絡み合う戦国の世は、人間の全てを曝け出す、そして能力をも最大限に引き出す。
生きる象徴でもある安土桃山時代の絢爛豪華な金箔が溢れ出る絵画から、死を覚悟する詫び寂びの大成の千利休の茶道などなど、生きる死ぬの本気度。
アートな時代。
長谷川等伯(1539〜1610)の生まれた年を中心に、前後に生まれた北陸・近江に絡む戦国武将と重要人物を生没見てみると。
そうそうたる人生を歩んだ人物が並ぶ。
生まれ順に並べみる。
みんな命掛けで生きてる。
生まれ年順。
・柴田勝家(1522?〜1583)
織田家宿老、信長の元、越前(福井県)や近江(滋賀県)も転戦、味方であり、最後は敵であった近江の戦国大名の浅井長政を、浅井家を信長の元で滅ぼし、越前を治める。信長の妹であり、浅井長政の継嫁でもあるお市を正妻に、信長亡き後の後継争いで秀吉に敗れ、お市の方と共に最後は自害。
・千利休 (1522〜1591)
侘び茶の大成者。堺で生まれ、信長から秀吉からも茶堂として召し抱えられる。超一級の文化人。最後は秀吉との関係が悪化して、切腹させられれる。
長谷川等伯 の描いたと言われる「千利休像」からも、関係性が窺える。時代のトップまで昇り詰めた文化人としてのプライド高き生き様が考えさせられる。
・朝倉義景(1533〜1573)
越前(福井県)の守護大名、信長に対抗して浅井家と同盟。一時は信長を窮地に追い込むが、浅井家を滅亡させた後の信長の前では、名門もあっけなく攻め落とされる。最後は味方にも逃げられ自害。
・織田信長(1534〜1583)
桶狭間の戦い等、説明要らず。
美濃岐阜を統一。浅井家と同盟と戦い苦戦しながらも、浅井朝倉軍を撃破、比叡山の衆徒は浅井朝倉軍の味方をして焼き打ちに合うが、北近江浅井に位置する竹生島宝厳寺には、なぜが庇護している記録もあり。
あと一歩で天下統一のところ、京都本能寺で明智光秀の謀反で討たれる。
日本史の中でも、大河ドラマに最も相応しいドラマチックな人生。
・豊臣秀吉(1537〜1598)
信長の元、頭角を表して近江(滋賀県)を与えられる。不細工で、身分も分からず、草履取りから、信長亡き後、大阪城をも築き天下統一。
これぞ戦国の下剋上。
太政大臣まで出世。貴族だよ。
立身出世の人生。
秀吉の正室寧々(豊臣家)が、竹生島宝厳寺とは再建など関係は深い。大阪城にあった極楽橋が法厳寺に移築されている。
・長谷川等伯(1539〜1610)vs・狩野永徳(1543〜1590)
日本最大の絵師集団、基礎を築いた狩野元信から英才教育を受けるサラブレット狩野永徳。信長、秀吉と時の権力者から安土城や大阪城、秀吉の京都邸宅の聚楽第などの障壁画を一手に受ける。そこに能登から天才絵師長谷川等伯が受注競争に割ってはいる。絵師の中でも下剋上の機運の長谷川一派vs守るは狩野一派の激突。永徳が立ちはだかる苦心の為か48歳の若さで亡くなる。過労死とも言われる。
残る等伯は、永徳没後も筆をとり続け享年72歳。
絵師集団を率いて突き進んだ人生は、残された絵画からも迫力が伝わります。
共に、日蓮宗のお寺にお墓があり、法華経、観音経にと出世街道を歩いたのではないかと勝手に思っております。
・浅井長政(1545〜1573)
北近江の戦国武将。竹生島は浅井姫伝説が残り、浅井名前からも深い縁で氏子でもあり、浅井長政ともゆかり深い。
織田信長の妹、お市の方を妻に迎え、同盟も結び浅井家の発展に尽くすも。
朝倉家との関係からか?信長との同盟を破棄。
・お市の方(1547〜1583)
信長の妹であり、浅井長政の妻。
織田、浅井家の同盟関係から浅井長政に輿入れ。
浅井長政が同盟破棄するも、お市の方は織田家に帰らず長政と共にするも信長に攻められ夫は自害。
織田軍に3人の娘と救出され、信長死後に織田家家臣の柴田勝家に嫁ぐ、勝家が秀吉と対立。
賤ヶ岳の戦いで夫の勝家が敗走、越前北ノ庄城で夫が自害するのと共にする。
天下一の美人と言われドラマ性たっぷりの人生。
静かな湖北の湖面から平和な巡礼から今の私の人生と比べる必要もないが、比較すると皆壮絶な人生。
「南無観世音菩薩」
と危機に一心称名(しょうみょう)
でななく、
この旅行している状況に
「南無観世音菩薩」
感謝。
30分もすれば、竹生島が見えてくる。
湖北にポツンと浮かぶ島の姿はほんと神々しい。
島のほんの僅かな隙間だけ、
船の停泊場所がある。
あとは木々に埋まっている。
下船の準備だ。
西国巡礼三十三ヶ所第30番札所でもある宝厳寺は目の前へ。