奈良時代の南都仏教から平安時代に入り、日本仏教界に二代スーパースターが誕生する。
そこは、日本仏教の本拠地で聖地であり1200年経っても健在。
日本仏教界の両巨塔の寺院郡は、残念ながら三十三観音霊場リストには入ってはいない。しかし、影響力は大きく、比叡山や高野山で修行された高僧が各地の寺院に赴き、三十三観音霊場に登録されている寺院も多数。
私は、みんなお寺と、ひとくくりに雑に見ていましたし、空海が最澄が凄い人と言われても教科書のレベルの知識で…それ以上でもなくそれ以下でもない。どれだけ凄いのか、影響力があったかまで体感できなかったが、観音霊場を周りだし、空海の真言宗系列の寺院、最澄の天台宗系列と日本各地にあるのには驚かされる。
満願寺は、関東平野を見渡す坂東三十三ヶ寺で栃木県にあり、歴史はもっと古いので、真言宗で上塗りしたのだろう。
日本中席巻していた感があり。
西国から離れて、関東を周ると当時は新幹線もないだろうに、各宗派が全国に広がっているのを感じとれる。当時から寺を巡る巡礼らしきものはあったのだろう。
仏教は広く深く日本に根付いている。
西国三十三ヶ寺の各宗派で、唱えるお経など異なるように、観音巡礼始めた頃は見えなかった各寺院の機微の差に、教えの表現など特徴が見えてくる。
知らず知らずに、門前の小僧が経を詠む感じに知識が増える。
大概、開祖と名がつく人は、伝説となって今だに崇め祭ららている。その後は得てして開祖の凄さを越える人はなかなか現れては来ない。
リーダーシップ低減の法則に当てはまる。当たり前とえば当たり前か、確かに、空海みたいに誰ができるねん。
毎年恒例に、スーパースター誕生には無理がある。
開祖が亡くなると(空海は未だ生きていると言われるが)、年々、開祖のパワーも薄れていきお家騒動が起きてくる。組織が大きくなればなるほど色んな怪しい人も入ってくる。権力に溺れ、荒れ果て、機微の違いで喧嘩する。ここまでは仏教といえどもどこの組織とも変わらない。しかし、スタートの植えた種がいいのか、また、そこから開祖の教えが蘇り、救世主となり引き継ぐものが生まれてくる。
満願寺から真言宗で遡り、宗派を辿っていくと京都、智積院(ちしゃくいん)にもたどり着く。
智積院の歴史から、覚鑁上人(かくばん)に突き当たる。後々に興教大師(こうぎょうだい)の諡号を与えられる程の偉い僧侶。
真言宗を復活させた中興の祖。
新しいことをするには、正しかろうが何事も旧勢力から対抗されるのはいつの時代もお決まりごと。
旧勢力と対立が激化。
親分に子分がついていき、弟子が新義真言宗へ。
この新義真言宗はやがて大和長谷寺を中心とした豊山派と、京都の智積院を中心とした智山派とに分かれる。今回は、その中で、満願寺も属する智山派の総本山に行くことの機会を得た。
京都市東山七条。
智積院(ちしゃくいん)
高野山→和歌山県の根来寺の数ある塔頭のひとつ(教学・教育などの学事を統轄する僧侶の役職がいた寺)→根来寺焼き討ち→避難京都へ。
智積院として。
智積院が京都にあるのは、豊臣秀吉の紀州攻めに抗参戦して、徹底的に根来寺が燃され壊滅させられた影響、その後、 豊臣秀吉が建てた祥雲禅寺(しょううんぜんじ)最初の息子である鶴松の冥福を祈って建立する。今度は、豊臣家が滅び、徳川家が実権をとり庇護の元、京都でこの寺ごと智積院に寄進される。
激動の戦国の世。
今では、真言宗智山派の3000余の総本山。
京都に東山を背景に七条に構える姿は、塀の中に入るとわかるがこれぞ総本山の佇まい。
空海の真言宗といえども、開祖の教えの解釈や時代の流れもあり分派して、それぞれが本山となってご立派になられている。
京都市街は、北から、地図上の上部から一条、二条、三条、四条通〜十条通と東西に通りが走っている。
碁盤の目のように道が直角に交差する条坊制なので、立ち位置がわかりやすい。
北と東と西の山に囲まれて、南に地図上では、下に川が抜けて広がる。
JR京都駅が
七条と八条の間位か?
JR京都駅の正面玄関をでると七条・・・ここは、さすがお寺が多い。
東本願寺、西本願寺など。京都の表玄関的通り。この通り七条の東端へ向かうと、国立博物館、三十三間堂があり、東山を背景に智積院に突き当たる。
今回は、関東からいつも私に教養を授けてくれる先生が、京都観光されるので、その日に合わせて休暇をとり食事もしながらとなるので、日帰りもできるが一泊することにした。
そのために、智積院に向かっている。
宿泊と智積院は関係なさそうで、実は智積院に泊まれるのである。
これは貴重な体験できるのである。
智積院は、宿坊を備えている。
京都で初のワクワク宿坊体験へ。
この内容が、超魅力的。
次回へ続く。