墓参りも済ませて、おみやげ見たりするのはよく七尾の町まで出かける。
おみやげ買うのも楽しみのひとつだ。
あちらこちらと転勤や旅行をしていて、石川県は日本有数のグルメ県と思う。
美味しいみやげには目移りする。
真冬の寒ブリの刺身なんて口の中に入れると脂が消えてなくなるようだ。今まで食べたブリは本当にブリだったんだろうかと疑ってしまう。メスのズワイガイニがこちらではセコガニと呼ばれている。甲羅の中にある卵が内子に腹部の外子。これが又美味で普段こんなもの見たことない。
とにかく、珍しいものが多い。能登は塩もとれて新鮮な鰯からいしる(魚醤)を、ぬか漬けにして鰯のコンカ漬け、フグもぬか漬けにして、猛毒の卵巣までも食べられるようにしてしまう。まだまだ、ナマコから超高級食材のくちこ、どれもこれも珍味で酒の肴には嵌ると、とんでもなく日本酒がススム。もしくは白ご飯が進んでしまう。
七尾の町にある能登の海鮮食材を販売している「しら井」さんに寄って、とろろ昆布などなどを買いに行く。
昆布を鉋(カンナ)で挽いたような、透き通るとろろ昆布を口の中にいれると、昆布の香りが淡く現れ消えていく。ニシンの昆布巻きに、ブリ巻きにと美味しすぎる。
穏やかな湾内に港を持つ七尾は、日本海の有数の寄港地であり、大坂、京都へ運ぶ北前船の重要地だったのが、おみやげの昆布などからもうかがえる。
戦国の世に戻すと、七尾は畠山氏からになるだろう。
畠山氏は、室町時代には室町将軍に次ぐナンバー2の三管領家となり、斯波氏、細川氏に割って入って、室町幕府の政務を預かる守護として、重要拠点の県知事みたなものか、大和(奈良県の一部)、河内町(大阪の東部)、紀伊(和歌山)、近畿圏の重要な周辺都市。北陸越中、分家は能登の守護としても任されるようになる。
三管領家に四識(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)をも含め、有力守護大名の家督争いからズルズルと応仁の乱(1467年〜1477)と発展し長引き、更に将軍家も交え、公家も交え最終東西を二分する戦いになり、京都の町は焼け野原となる激しい戦いも、誰も勝者がないグダグダ決着。公家の荘園は没落、地域の管理もグダグダ化、一揆や町自身の自立自衛と、戦国の世の切っ掛けになっていく。
その後、能登畠山氏は、7代目畠山義総(よしふさ)1515年〜1545年が各地の一向一揆をまとめ上げ、守護大名から戦国大名と世の変化に対応。難攻不落の山城七尾城をリニューアルし都市再設計。城下町には商人や手工業者も集まり、義総(よしふさ)が文化教養の理解もあったことから戦乱から逃れてきた文化人をももてなし、軍事、商業、文化と能登七尾の繁栄を迎える。
その時に、ひとりの絵師、長谷川等伯がここ能登七尾で1539年に出生される。
戦国の時代に突入する時代だ。
のちに日本最高峰と言っても全然過言でない水墨画、国宝「松林図屏風」を描いた天才だ。
一度は実物を見てみたいと思う日本画のひとつだ。
たった数本の松を、白と黒の濃淡だけで描かれている屏風なのだが、なんとも言え気持ちになる。白黒濃淡だけだで幽玄な空気感、400年も前とは感じられない時空があらわれる。屏風という平面の紙なのに、見る見る松の林に吸い込まれていく、どこまでも奥深いのだろうか、幽玄な霧の中にココロまでも吸い込まれる。
実物でなくとも、美術図鑑の写真からでも十分感じてしまう。
どこで、いったいどの松を描いたのだろうか?この濃密な湿った空気感は、等伯が育った能登の沿岸の松林ではないのだろうか。この日本独特の空気感までこの絵から嗅げる。海外の絵画では絶対に出会えないグレートな作品だ。そりゃ国宝になるわな。
なんとも言えない物寂しさと淡い朝霧のような明るさは、見る側のココロまでも浮かび上がらせ、自分自身を投影してしまう。なので、人それぞれの味方、タイミング、年齢によっても変わるだろう。今は、墓参り後であり、折り返しを超えた自分の年齢からか?
死を迎える物寂しい気持ちが
浮かび上がってくる。
死に対しての悟り。
生きることの悟り。
この絵には、仏教の極意の悟りまで到達したような感じがする。仏を描かずとも仏画ではないか。
長谷川等伯は、畠山氏の下級家臣、奥村家の子として生まれ、長谷川家に養子に出されて長谷川姓となり、仏絵師として長谷川春信として、北陸地方の寺院に名前が知れ渡っていくていく。
絵師の仕事として、七尾の生家の菩提寺、本延寺(ほんねんじ)では木造の日蓮聖人座像の彩色、能登羽咋(はくい)にある妙成寺(みょうじょうじ)に、「日乗上人画像」、「仏涅槃図」でいずれも日蓮宗関連のお寺で多く残されている。
この日蓮宗は、開祖の日蓮さんが法華経こそが絶対の経典と信じ切って布教し、もともとは法華宗と言われていた。今では、法華宗の名前が日蓮宗となれども、後世に法華経を信仰の柱にした分派が多く残ることとなった。そもそもそも法華経は「妙法蓮華経」が正式名で、日蓮でなくとも古い時代から聖徳太子に天台宗の最澄にと日本仏教会の中心にあり続けた大人気経典だ。その法華経の一部が、一部の章が「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)」であり、「妙法蓮華経 観世音菩薩 普門品 第二十五」。普=あまねく。門=扉が開いている。広く衆生を済度しようとする広大な慈悲の門を開いている。品(ほん)=章。法華経の二十五章。普門品=観音力であまねく広大に衆生を救おうとする慈悲の章。このブログの観音力を称え上げる最重要な根拠元でもあり、法華経の中でも人気の章。この品=章をピックアップして、あたかも独立した経典のように扱って「観音経」として扱われてきたが、法華経の一部なのだ。ただ、「妙法蓮華経」があって観音経だが、観音経の人気が「妙法蓮華経」の人気を高めているとも言えるのではなかろうか。
長谷川等伯は、想像だが法華経に観音様にその経典の真髄を掴んでいた人ではないか
法華経の経典の教えは、いい絵を描くのもしかり、商売繁盛に、危険な時の助け、さまざまな功徳の教えがあり、この三十三観音霊場巡りの重要なエッセンスでもあるにも関わらず、法華経を知る機会もなく、知らない人の方が多いのではなかろうか。
私がその代表者と言える。
南無、妙、法、蓮、華、経、なんみょうほうれんげきょ、呪文かと思って意味は知らなかった。
知っても、知らなくても別に巡礼には支障はないといえど、唱えれば結構元気になれるこの観音経。
巡礼にも華が添えられるのではないか。
観音経。
美術。
戦国の世。
寺には記録されている。
巡礼、旅のエッセンス。
長谷川等伯が、京の都に絵師として、腕一本で、巨大絵師グループの総帥、狩野永徳に立ち向かう様。
人生を掛けて、
北陸能登七尾から、
京の都に旅立つ。
その姿にに掛けて、
憧れて、
平和な世の我々は、関西の西国霊場へと、おみげも買ったし、妻の実家の京に向かおう。
戦国の世を思いながら北国街道へ。
次回へつづく。